伊藤大輔 (レーサー)

伊藤大輔 (レーサー)

伊藤大輔 (レーサー)

伊藤大輔 (レーサー), by Wikipedia / CC BY SA 3.0

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伊藤大輔(いとう だいすけ、1975年11月5日 – )は、東京都北区出身のレーシングドライバー。
1995年に鈴鹿サーキットレーシングスクール・フォーミュラクラス(略称SRS-F)に第1期生として入校。
1996年スキルスピードよりフォーミュラ・トヨタにデビューする。
1997年より全日本F3選手権にステップアップし1998年及び1999年にはマカオグランプリにも参戦。
1999年には日本人ドライバーとして初めて3位表彰台に上った。
これらの実績が買われ、2002年には全日本選手権フォーミュラ・ニッポンにステップ・アップした。
当時メジャーリーガーだった佐々木主浩がオーナーのTEAM 22から参戦して話題になったが、全戦完走を果たすもノーポイントに終わり、1年でシートを失うこととなった。
1999年から全日本GT選手権(JGTC)に参戦。
2000年にはGT500クラスにステップ・アップ(NAKAJIMA RACINGより参戦)し、いきなり2勝(第3戦菅生ラウンド、最終戦鈴鹿ラウンド)を記録。
2002年は無限に移籍したが、チームメイトの道上龍がケガのため数戦を欠場したことにより、その代役としてファーストドライバーを務めた。
2003年は道上龍の移籍により無限のファーストドライバーに昇格。
不振が続いたNSX勢ではあったが、第6戦もてぎラウンドで優勝し気を吐いた。
2004年は、AUTOBACS RACING TEAM AGURI(ARTA)に移籍するも極度の不振に陥り、シリーズ最下位に低迷する。
2005年は、ホンダ陣営のエースドライバーの一人として、Team Honda RacingからARTA NSXでSUPER GTに参戦。
第3戦マレーシアラウンドで2位、第8戦オートポリスラウンドで優勝し、悲願のシリーズタイトル獲得を期待されたが、最終戦は12位に終わり、総合成績は僅差で及ばなかった。
2006年は松田次生が日産陣営へ移籍したこともあって、伊藤に一層の期待が集まっていた。
ホンダ陣営における日本人エースドライバーの一人として、シリーズタイトル獲得を目指して前年同様の体制で参戦するが、予想外のアクシデントやトラブルに見舞われ、悲願達成には至らなかった。
2007年はTeam Honda Racingの解散にともない、再びARTAから参戦している。
そして第2戦岡山国際ラウンド、第5戦菅生ラウンド、第8戦オートポリスラウンドと3勝をあげ、最終戦富士ラウンドを待たずに、自身初そしてホンダにとってJGTC時代以来となるシリーズチャンピオンのタイトルを獲得した。
なお第1戦鈴鹿ラウンドの予選でGT500クラスのコースレコードタイム1分49秒842を記録している。
2008年はSUPER GTにおいて長年在籍したホンダを離れ、トヨタ陣営であるチームルマンへ移籍し新たなスタートを切ることになった。
なお、その他のレースではPokka鈴鹿1000km耐久レースでは上位入賞の常連であり、2004年にはスーパー耐久シリーズのクラス4でシリーズチャンピオンに輝いている。
ホンダ在籍時は、自らが卒業した鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS-F)で講師を務め後輩の育成や指導にも力を注いだ。
2008年7月11日、ホットバージョンのDVD撮影のため群馬サイクルスポーツセンターでコースを走行中、コントロール不能に陥って立ち木に激突。
セッティング作業中で作業を効率的に進めるためにヘルメットを装着しておらず、右頭部頭蓋骨を骨折、右頭部裂傷、左頭部脳挫傷の重傷を負い、一時は意識不明の重体となった。
奇跡的に一命は取り留めて快方に向い、SUPER GT最終戦で復帰を果たした。
新規定に合致したマシンが全チームに投入され、復活を期した2009年だったが、9戦中7戦で入賞を果たすものの、タイトル戦線を脅かすには至らず、シリーズ12位に終わった。
2010年は一転してチーム、ドライバー共に好調で、勝利こそないものの前半戦で3度の表彰台を獲得し、ランキングトップを走っていた。
しかし、最終戦でチームメイトのビヨン・ビルドハイムが予選アタック時にピットシグナルを無視したために、決勝レー…

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